ゾンビは論理的可能性ですらないか?
------チャルマーズに対するpros and cons------

             柴田正良(金沢大学)

 


 チャルマーズの性質二元論は、物理主義に対立するテーゼとして提出されている。通常、科学者(とくに物理学者?)は、よほど問いつめられた場合以外には物理主義者とはならないだろうと思われる。確信犯的な(?)実体二元論者を除くと、彼らがおしなべて存在論に無頓着であるのは、想像のかなたの可能世界で何が起きようとも自分の目下の研究に差し迫った影響はない、という理由からであろうか。しかし、われわれ哲学者でも、物理主義のギリギリのラインがどこに引かれるべきかに関しては完全な一致に達しているわけではない。その意味でチャルマーズの物理主義反駁は、どこまでが物理主義の主張なのかということの自覚をわれわれに迫る絶好のきっかけである。以下では、まず第一に、性質多元論と調和する物理主義の主張を<控えめな物理主義>として提示する(1節)。ついで、意識に関するチャルマーズの非還元的な機能主義が、この<控えめな物理主義>の下でも値引きされずに主張可能であることを確認し、それを擁護する(2節)。最後に、チャルマーズの肌理の細かい(fine grainedな)機能主義が含意する意識の多重実現の主張は、身体に関する認識論的というよりは経験的な制約によって弱められなければならない、という論点を明らかにする(3節)。
 

1. 控えめな物理主義は自然法則的スーパーヴィーニエンスで満足する

1-1. 論理的スーパーヴィーニエンス
 チャルマーズが物理主義の誤りを論証するステップは次の通りである。

 (1)われわれの世界には、意識経験が存在する。
 (2)われわれの世界と物理的に同一だが、意識に関する肯定的事実は成立していないような論理的に可能な世界が存在する。
 (3)したがって、意識に関する事実は、われわれの世界の物理的な事実を超えでたさらなる事実(further facts)である。
 (4)それゆえに、唯物論(/物理主義)は誤りである(1)。

 要するに、われわれの世界とまったく物理的に同一であるが、意識経験がどの人間にも、またどの犬や猫にも生じていないようなゾンビ世界が論理的に可能であるがゆえに、物理主義は誤りだ、というのである。つまり物理主義は、あらゆる事実に関してチャルマーズの言う論理的スーパーヴィーニエンスの主張を含意すると見なされ、しかし他方で、意識やクオリアは物理的事実に論理的にスーパーヴィーンしないがゆえに、物理主義は間違いだとされているわけである。しかし、物理主義は意識やクオリアに関する論理的スーパーヴィーニエンスの主張をしなければならないのだろうか。私は、その必要はないと考える。逆に言えば、もう少し弱められた物理主義というものが可能であって、それによれば、ゾンビ世界であるような、論理的には可能だが自然法則的に不可能な、現実世界からは<遠い>世界で何が起ころうとも、物理主義の主張には関わりがない(2)。つまり、物理主義は、論理的に可能なあらゆる可能世界をスコープとする主張でないのはもちろん、われわれと同一の物理法則をもつあらゆる可能世界をスコープとしなければならない主張でもない。ここで提案される<控えめな物理主義>は、そのスコープを、われわれと同一の物理法則をもつ可能世界の一部(部分集合)でよしとする主張なのである。
 そこで、まず、チャルマーズの言う「論理的スーパーヴィーニエンス」と「自然的スーパーヴィーニエンス」の概念を確認しておこう。スーパーヴィーニエンス関係は、ふつう二つの性質(群)の関係として理解されており、その二つとは典型的には物理的性質と心的性質である。また、その二つの性質がスーパーヴィーニエンス関係に立つ場合、それが生物体や脳においてローカル(local)に成り立つのか、あるいは世界全体においてグローバル(global)に成り立つのかの違いがある。例えばふつう、認知機能への意識の還元が可能かどうかに関しては局所的(ローカル)なスーパーヴィーニエンスが問題であり、物理主義が妥当かどうかに関しては全域的(グローバル)なスーパーヴィーニエンスが問題となる。さてそこで、論理的スーパーヴィーニエンスは次のように説明される。
 「B性質がA性質に論理的にスーパーヴィーンするのは、A性質に関して同一であるにもかかわらずB性質に関して異なっているような、二つのいかなる論理的に可能な状況も存在しない場合である。」(Chalmers [1996] p.35)
 大ざっぱにいえば、ここでの論理的可能性は概念的な想像可能性(conceivability)に対応する。したがって、「雄の牝狐male vixen」という概念は矛盾をはらむがゆえに論理的に不可能であるのに対し、「飛ぶ電話機flying telephone」は整合的な概念であるがゆえに論理的に可能である。チャルマーズによれば、神は、後者が存在する世界を作りえたであろうが、前者が存在する世界を作ることはできない。他方、自然的スーパーヴィーニエンスは次のように説明される。
 「B性質がA性質に自然的にスーパーヴィーンするのは、同じA性質をもつどの二つの自然的に可能な状況も同じB性質をもつ場合である。」(ibid. p.36)
 自然的に可能な状況とは、いかなる自然法則も侵犯することなしに自然に生じうるような可能性であり、大ざっぱにいえば、実際の経験的可能性に対応する。チャルマーズによれば、高さ1マイルの高層ビルを建てることは論理的にも自然的にも可能だが、反重力装置や永久運動機関は論理的には可能であっても、自然的に可能ではない。言いかえると、「もし・・・であったなら」という反事実的条件文がすべての自然法則の保存の下で値踏みされる場合、その評価の行われる場所が自然的に可能な世界なのである。
 さて、「物理的事実」ということで、物理的性質のすべての例化と配置(全基本粒子の状態)のみならずすべての物理的法則も含めて考えるならば(ibid. p.33)、物理主義の主張が、「世界のすべての事実は物理的事実に論理的にスーパーヴィーンする」というものだと解釈されるのは、一見すると当然であるように思われる(3)。というのも物理主義的直観とは、ひとまずは素朴に、「世界には物理的なもの以外は存在しない」、「物理的なものがすべての事実を決定している」、もしくは「物理的に同一でありながら、それ以外の何かが異なっているようなことはありえない」と表現されるようなものだからである。チャルマーズの言い方を借りれば、もし物理主義が正しければ、神はいかなる世界であれその世界の物理的事実を決定しさえすれば、それでその世界のすべてを創造したことになる。なぜなら、物理主義は、物理的事実が同一でありながら他の事実が異なることはありえない、つまり他のいかなる事実も物理的事実に論理的にスーパーヴィーンするという主張だからである。
 したがって、もし物理主義が間違っているなら、物理的事実に論理的にスーパーヴィーンしていない事実が存在するのだから、神には、世界の物理的事実を決定した後で、なおその余剰の事実を創造するという一仕事が残っていることになる。クリプキの『名指しと必然性』での話を思い起こすなら、この世に<痛みの感覚>を出現させるために、神は、C神経繊維の興奮という物理的仕掛けをあつらえた後で、それを当人に痛みとして感じさせる仕事をなさねばらなかったように。
 チャルマーズの論点をもう一度まとめよう。物理主義は、一切の事実が物理的事実に論理的スーパーヴィーンするという主張にコミットせざるをえない。しかし、われわれと物理的に同一の事実が成立していながらも意識経験をすべて欠いた世界は概念的に可能である(ゾンビ世界の想像可能性)。それゆえ少なくとも意識経験という事実は、物理的事実に論理的にスーパーヴィーンしない。したがって、物理主義は誤りである。もっとも、ここで急いでつけ加えておけば、チャルマーズは、物理的事実への意識経験の論理的スーパーヴィーニエンスは認めないが、自然的スーパーヴィーニエンスは認めており、それが、意識に関する彼の非還元的機能主義の根拠となっているのである。

1-2. 直観的概念としての物理主義
 しかし、チャルマーズのこの議論は、物理主義の直観の多くを正当に扱っているように見える一方で、実は、物理主義の主張に過大なものを背負わせていると私は思う。つまり、彼の解釈では、物理主義はいわば物理的事実と他の事実との論理的関係に関する主張であり、しかもその主張によれば、他のすべての事実は物理的事実に「含意entail」されている。しかし、物理主義は、物理的な法則や性質から他の一切の法則や性質が論理的に導き出される、という主張だろうか。例えば化学理論や生理学理論が物理理論へ還元されうるとした場合、確かに、それらの理論の内部にある言明はすべて物理理論から「導出」されるようになる。しかし、それを可能にするネーゲル流の橋渡し法則、もしくはそれに類似の対応法則さえもが、物理理論から論理的に導出されるわけではなかろう。もしそうなれば、科学者(哲学者?)は、たとえ化学理論や生物学理論をあらかじめ何も知らなくとも、物理理論さえ知っていれば安楽椅子に座ったままでそれらを「導出」できることになるだろう。というのもその「導出」は論理必然的なものであって、法則必然的なものではないからである。しかし普通は、橋渡し法則もしくは対応法則は、還元される理論がすでに立てられた後でたかだか自然必然的なものとして主張されるだけであって、その場合、例えば還元される生物学的性質Bと物理的性質Pの等外延的関係(B⇔P)は、物理理論からは導出されない。また、橋渡し法則もしくは対応法則が物理理論からの単なる定義として提案される場合には、今度はPによって定義されたその性質Bが実際はいかなる生物学的性質であるのかは、一般にあらかじめ物理理論から論理的に導出することはできない。
 さらに、かりに物理主義が、チャルマーズの言うように、物理的事実と他のすべての事実との概念的関係に関する主張だとしてみよう。すると物理主義が正しいか否かは、ある種の概念分析から論証されることになるだろう。物一元論かあるいは物心の二元論か、といった存在論の主張が概念分析だけから論証されるというのは、きわめて奇妙に思われる。というのも、この種の論証によって逆に物理主義者が二元論の誤りを論証したとしよう。物の概念と心の概念の相互独立性(/含意関係)に関する真理はまさに論理的真理であろうから、そのとき物理主義者がなしたことは、二元論は<いかなる論理的に可能な世界でも>真ではないということの論証であろう。しかし、いかに筋金入りの物理主義者といえども、物理主義の主張を概念分析から得られる<論理的真理>として掲げ、二元論は論理的に矛盾した主張だ、とまでは言わないであろう。まさしく、現実世界からはるかに<遠く>離れた、論理的無矛盾という制約しかない可能世界で何がどうなっているかに関して、誰が確信をもって語れるだろうか。賢明な物理主義者は、そのような可能世界に関しては沈黙を守るだろう。いずれにせよ、物理主義を概念分析から得られる<論理的真理>にまで強める必要はないのである(4)。
 しかし、物理主義の主張をどこまで弱めるかに関しては、チャルマーズの議論はある意味で巧妙である。というのは、彼は物理主義の値踏みを、物理法則が存在するかどうかも定かではないような、ただ論理的に可能でありさえすればよい世界においてなすように求めているのではなく、われわれと同じ物理的事実が成立している可能世界においてなすように求めるからである。そこでは、われわれがゾンビ世界の論理的可能性を認めるやいなや、とたんに物理主義的主張のすべてを失うように仕組まれている。というのもわれわれはゾンビ世界の承認によって、物理的に同じ事実が成立しているにもかかわらず残りのすべての事実が同じとは限らない、という可能性を認めたことになるからである。
 しかし、私は、ゾンビ世界の論理的可能性と物理主義の破綻との間にクサビを打ち込めるのではないかと考える。物理主義者が主張したいのは、物理的事実に対するすべての事実の法則的依存性であって、論理的依存性ではない。したがって、たとえゾンビ世界の論理的可能性を認めてもなお、物理的事実が同一なら他のいかなる事実も異なることは<ありえない>、といえるような様相的直観に対応する可能世界のスペースが、法則的依存関係によって恣意的な仕方でなく確保できればよい。すると、その依存関係は結局のところ、物理的以外の事実について成り立っている法則群と、基本的な物理的法則群との間の依存関係に帰着するだろう。なぜなら、物理的事実への依存性があらゆる事実に及ぶとすれば、それはあらゆる事実についての法則を通してでしかないだろうからである。
 そこで、チャルマーズの自然的スーパーヴィーニエンスから出発して考え直してみよう。われわれの世界には、基本的な物理法則群と、それに登場する物理的性質の全例化の時空的パターンが与えられている。それからさらに、次第にマクロなレベルへと上昇するにしたがって、それぞれのレベルの法則群とそこに登場する性質の全例化の時空的パターンが次々に階層的に与えられていると言っていいだろう。例えば、その階層の下の方には神経生理学的な法則とその性質が存在し、またそれより上には生物学的な法則とその性質、さらにそれより上には心理学的な法則と性質が存在する。ここで、チャルマーズとは異なり、各レベルの法則や性質は物理的事実に含意されているのではないという存在論をとるなら、自然的スーパーヴィーニエンスとは、われわれの世界では各レベルの性質群が少なくともグローバルな仕方で物理的な性質群にスーパーヴィーンしているという主張であり、したがって、それらの間に少なくとも「片道還元」的な橋渡し法則が存在しているという主張である。すると、われわれの世界のすべての事実の成り立ちをそのように理解するなら、法則の存在論的身分は、物理的法則、nレベルの出来事の法則、さらに両者のレベル間のスーパーヴィーニエンス関係を表現する橋渡し法則の3種類だ、ということになるだろう。
 チャルマーズの構図では、意識経験に関する法則とその橋渡し法則は、物理的な事実から論理的に独立であり、しかもそれ以外に両者の関係には何の制約もない。したがって、現実世界における物理的法則を固定したとしても、意識経験に関する別の法則と、別の橋渡し法則がそれと組み合わされる可能性は、すべてがまったく同等に<論理的に>可能という様相で一括りにごちゃ混ぜになっている。つまり、現実世界を一歩出ればすぐに「論理的に可能であるが非常に奇怪な」可能世界がひしめいている、という構図になっており、それがためにチャルマーズは、自然的スーパーヴィーニエンスを「現実世界の自然法則のすべてが同じという条件のもとで可能となる世界の集合」ではなく、あたかもこの現実世界だけで成立しているかのように語っていると思われる(5)。そしてもし、自然的スーパーヴィーニエンスがこの現実世界だけ、つまり無限個の可能世界の内のただ一つだけでしか成立しないならば、確かに物理主義者の直観は満足されないであろう。というのもそれは、いかなる種類の<必然性>、<ねばならない>でもないからである。物理主義者の関わる存在論は、究極的にはこの世界の存在論であるとはいえ、そこには可能世界によって語られる様相的直観が埋め込まれているはずである。
 というわけで、現実世界で成立している自然法則からの逸脱の度合いにしたがって、われわれは現実世界からの可能世界の<距離>を測ることができるだろう。その一つのやり方は、まず、現実世界の物理法則群を固定する。さらに、現実世界において「物理的領域における因果的閉包性」が成立しているものとし、それを固定する(6)。その法則群は、物理法則とそれ以外のn個のレベルの法則とそれらをつなぐ橋渡し法則である。ここでは、それぞれの法則すべてが互いに論理的には独立であると想定しよう。ただし、話を複雑にしないために、それらの法則群の中で意識経験に関する法則(意識法則)とそれに関する橋渡し法則だけが現実世界の状態から逸脱しているモデルを考えよう。以下のSnは、法則群のあり方によって可能となる可能世界の集合と考えることができる(7)。
 するとまず、Snを特定するはずの橋渡し法則と意識法則が、それぞれ現実世界と同じか、違うか、それともそもそも存在しないか、という三つの場合の組み合わせを考えることができるだろう。その可能な組み合わせは、それぞれのSnで現実世界と同じ<橋渡し法則、意識法則>が二つとも成立しているか、少なくとも一つか、それともそうした法則が存在していないかの順序で枚挙すると、S1<同じ、同じ>、S2<同じ、違う>、S3<違う、同じ>、S4<違う、違う>、S5<同じ、なし>、S6<なし、同じ>、S7<違う、なし>、S8<なし、違う>、S9<なし、なし>というものになるだろう。それをハッセ図で表すと図1のようになる。



 しかし、物理法則と橋渡し法則と意識法則の三者は互いに論理的に独立とはいえ、橋渡し法則は他の二者の<橋渡し>をするのであるから、その制約からして論理的に不可能な組み合わせが出てくるだろう。まずS2<同じ、違う>は、橋渡し法則が現実世界と同じであるから、そこでは、現実世界と同じ物理的性質に現実世界と同じ心的性質がスーパーヴィーンしているものと考えることができよう。すると、基盤となる同じ物理的法則と同じスーパーヴィーニエンス関係から、現実世界と異なる意識法則が成立することは不可能であろう。それゆえ、S2は存在不可能であり、この図から排除してかまわない。同様に、S5<同じ、なし>は、S2が現実世界と同じ意識法則の存在を含意するのと同じ理由でありえないだろう。さらにS7<違う、なし>では、少なくとも何らかの形で心的性質は物理的性質にスーパーヴィーンし、基盤となる物理的性質は法則的に生起するのであるから、上部性質である心的性質の生起に何の法則的関係もないということはありえないだろう。したがって、S7もこの図から排除される。すると、とりあえず論理的に可能な法則群の組み合わせをまとめると、図2のようになる。
 さらに、ここで、現実世界からの<距離>を測るために、ともかくも法則が存在する世界は法則が存在しない世界よりも現実世界に<近い>と定め、さらに、意識現象が存在する世界は意識現象が存在しない世界よりも現実世界<近い>と定めたとしても、それなりにわれわれの直観に沿うものであろう。すると、ともかくも二種類の法則が存在するS1、S3、S4は、一種類以上の法則を欠くS6、S8、S9よりも現実世界に<近い>ことになる。さらに、意識現象がまったく存在しない可能世界は、意識法則の存在しないS9世界群の中に生ずるであろうが、それらを、ともかくランダムな仕方であれ意識現象が存在する世界と区別するために、それらをS9の外側に追いやってS10の可能世界群としよう。すると、それらを現実世界からの<距離>にしたがって配置すると、以下の図3のようになる。




 さて、これらの論理的に可能な世界の集合を順に見ていこう。まず、現実世界から一番<近い>可能世界の集まりS1では、現実世界と同じ自然法則がすべて成り立っており、現実世界もここに属する。現実世界からそれより少し<遠い>可能世界の集まりS3は、現実世界と同じ意識法則が成り立っているが橋渡し法則が異なっているような可能世界の集合である。これはきわめて想像しにくいが、欲求に関する意識経験と満足に関する意識経験がこの世界と同じように法則的に結合されているが、両者は例えば、人間や動物においてではなく川や海のさざ波において実現されているようなナンセンスな世界である。結局これは、物理的な性質の全例化の時空的パターンと意識経験の例化の全時空的パターンとの間に、現実世界とはズレた形であるがスーパーヴィーニエンス関係が成り立っているような世界と見なすことができる。したがって、最も<近い>逆転クオリアの世界はこのS3の内部に初めて登場するであろう。さてS3よりさらに<遠く>にあるS4は、現実世界と異なる意識法則と異なる橋渡し法則が成立しているような世界の集まりである。S4に属する世界では、どんな物理的出来事にどんな意識経験が対応しているかはもちろん、どういった内容の意識法則が成立しているのかにも制約がない。ただ、意識経験の例化はそれ自体としては法則的に生起し、それらは、少なくともグローバルには物理的事実にスーパーヴィーンする、というにすぎない。したがって、どんな奇怪な内容の意識法則もS4の内部では可能であるが、S4内部で同じ意識法則と同じ橋渡し法則を満たすどの二つの可能世界でも、「物理的に同一でありながら、それ以外の何かが異なっているようなことはありえない」という主張は満たしていることになる。
 さて、さらに現実世界から<遠く>に存在するS6に属する可能世界では、現実世界と同じ意識法則は存在するがもはやそれらを物理法則に結びつける橋渡し法則は存在しない。ここでは例えば、欲求と満足に関する意識経験の法則的生起はわれわれの世界と同じであるが、それらは、あるときにはシーラカンスのある状態とポプラのある状態と共に例化され、別のときにはまったく別の性質と共に例化される。その次に<遠い>S8の世界は、現実世界と異なった意識法則が成立しているという点でS6の世界と異なるが、両者では共通に、意識経験の例化はまったく物理的出来事から自由に、それと無関係にいわば漂って存在しているだろう。私はそれを因果的に整合的な仕方でうまく想像することはできないが、おそらく法則的に生じる意識経験の世界と物理的出来事の世界が同時に無関係に一つの可能世界の中に<写し込まれた>ようなものになるであろう。そしてさらにそれより<遠く>には、心理法則も橋渡し法則も成立しないがともかくランダムに、つまり非法則的な仕方で意識経験が生じるようなS9の可能世界群があり、最後にはその外側に追いやられた、もはや意識経験が存在しないような可能世界群S10がある。

1-3. 少し正気に戻ろう(存在論的なスペースを狭める)
 これらはすべて論理的な可能性であるにすぎない、ということは何度強調されてもよい。要するに、このように考えても論理的矛盾は起こらないだろう、ということである。しかし他方で、論理的可能性を存在論の十分な導き手だとするなら、物理的出来事に因果的に介入しない限りでの天使や、精霊や、妖精たちの存在する可能世界も、S1に属する可能世界と同様の身分で存在することになるだろう。いや、実のところ、因果的に不介入な存在ならば、どんなファンタスティックな存在も<お咎めなし>なのである。したがって、素面の(?)控えめな物理主義者が主張すべきことは、存在論的にまともな考慮に値するのは現実世界の近傍に位置する可能世界だけであって、それ以外は<空虚な可能性>としてむしろオッカムのカミソリの対象になる、ということである(8)。それでは、控えめな物理主義者にとって、存在論的な考慮の導き手となるものは何か? それは、物理的以外のレベルに属する出来事の因果的ストーリーの整合性であり、そこに登場する性質の<因果的な有意性 causal relevancy>である(9)。
 実は、そのような考慮の一例をチャルマーズ自身が提供している。彼は、意識経験以外の事実はほとんどすべて物理的事実に論理的にスーパーヴィーンするということを認めるが、その根拠は、ほとんどすべての高次レベルの現象の本質はその構造と機能によっていわば「尽くされて」いるということである。したがって、その構造と機能を実現する物理的事実が存在するのに、その当の高次レベルの現象が存在しない、ということは想像不可能である。「例えば、生命のような現象に関しては、そのような物理的事実はある機能が果たされるということを含意するが、これらの機能の遂行こそが、生命を説明するためにわれわれが説明すべきすべてなのである。・・・滝、惑星、消化、生殖、言語の説明を考えよ」(ibid. p.106-7)。しかし、控えめな物理主義から見れば、ある機能の遂行が生命であるのは、論理的な必然性ではなく、せいぜいが因果的な必然性であり、それが「定義」によって論理的必然性の衣をかぶっているにすぎない。クワインの<分析/総合>に対する攻撃を思い起こすまでもなく、例えば、ある機能を果たしてもなおそれが生命ではないということは論理的には可能であろう(なんたって論理的可能性なんだから・・・)。
 したがって、構造と機能によってある高次レベルの現象の存在が「含意」されるということの本当の意味は、その現象が、当の構造と機能を実現する物理的レベルの出来事にスーパーヴィーンすることによって、その高次レベルの因果的なストーリーの中で有意的な役割を果たすということに他ならない。なぜなら、物理主義者が物理的領域の因果的閉包性を前提する限り、いかなる性質も因果的に有意であるためには物理的性質にスーパーヴィーンしなければならないからである。とすれば、物理主義者が真剣に気にかけるべき存在とは、少なくともグローバルな仕方で物理的な事実にスーパーヴィーンする因果的に有意な性質のみであって、因果的有意性を欠くがゆえに<物理的出来事と整合的な因果的ストーリー>が存在しないような現象の存在は、考えても何も考えたことにはならない<空虚な可能性>に他ならない。したがって、控えめな物理主義にとっては、上のS6より外側の可能世界は空虚な可能性として存在論的な考慮からはずしてよいであろう。それでは、そのスーパーヴィーニエンス関係は、どの物理的性質にどの高次レベルの性質が対応してもよいようなものだろうか。しかし、高次レベルの因果的ストーリーが整合的であるためには、結局、物理的レベルの因果的ストーリーを保存するような内容のものでなければならないであろうから、因果的に有意な性質は、この世界と同じ仕方で物理的性質にスーパーヴィーンしていなければならないだろう。例えば、岩石の何らかの状態や大気の何らかの状態にスーパーヴィーンする欲求と満足の因果的ストーリーは、物理的レベルの因果的ストーリーと論理的には整合的であっても、因果的には整合的ではない。そのようなスーパーヴィーニエンス関係の因果的帰結については、われわれの直観は沈黙するのみである。ということで、われわれの世界と同じスーパーヴィーニエンス関係は同じ橋渡し法則の成立を意味するのだから、S3とS4も排除され、最終的に、控えめな物理主義者にとって問題となるスーパーヴィーニエンス関係とは、まさしくS1の可能世界におけるそれだということになる。
 すると実際、ここではまだ、S1の境界をスーパーヴィーニエンスの概念を使わずに与えることはできていないが、ともかく、控えめな物理主義者の直観では、まじめな意味で<因果的に可能な世界>とはS1のスペースである。したがって、S1の境界を現実世界の自然法則と因果性に関する上のような制約によってうまく与えることができるなら、スーパーヴィーニエンスに関する控えめな物理主義の主張を次のように述べることができよう(10)。

<因果的に可能ないかなる二つの可能世界においても、物理的事実が同じでそれ以外の事実が異なるということはない>
 
 2. 意識に関する(非)還元的機能主義の擁護

 さて、少なくともチャルマーズは自然的スーパーヴィーニエンスを認めている。したがって、意識経験という事実が一体どんな物理的事実にスーパーヴィーンしているのかに関して、彼の意識の理論は答えを与えなければならない。本節では、その答えが機能主義的となるべき因果的な理由を確認し、それを擁護する。その因果的な理由は、控えめな物理主義にとって、彼が見積もるよりもはるかに存在論的に重要である。そしてその理由は、機能主義的でない意識の理論を排除するために役に立つ。つまり、控えめな物理主義者にとって、彼の非還元的機能主義は、その存在論的な含意からすれば、まさに<還元的>機能主義に他ならないのである(11)。

2-1. 意識はある種の認知的機能に双方向にスーパーヴィーンする
 チャルマーズの答えを導くものは、ずばり、意識経験と認知的構造の整合性であり、これを彼は意識の理論を制約する整合性の原理(principle of coherence)と呼ぶ。つまり、簡単に言うと、意識があるところには気づき(awareness)があり、気づきがあるところには意識がある(ibid. p.221)。ところで、これも急いで再確認しておいた方がいいだろうが、チャルマーズの議論の出発点は現象的性質(phenomenal properties)と心理学的性質(psychological properties)を概念的に峻別するところにあった。彼によれば、心の現象はこの両者の混合物であるが、心理学的性質がその典型的な因果的役割によって説明されるのに対して、現象的性質はそのような説明では尽くされない。例えば、「現象的な痛み」は誰もが知っているあの不快な感じであるが、「心理学的な痛み」は、身体の傷によって生じ、叫び声をあげたり、傷をかばったりする行動をわれわれにとらせるような状態である。ある現象的性質が心理学的性質Pの助けを借りて常に選び出されるとしても、その現象の概念は「P」ではなく、「Pに常に伴うような種類の意識経験」である(ibid. p.23)。そこで、チャルマーズの議論の構造は次のようになっている。まず、現象的性質と心理学的性質は、その概念的な違いのゆえに両者間で論理的スーパーヴィーニエンスは成立しないと主張した後で、しかし両者の間に自然的スーパーヴィーニエンスが成立することは認める。しかし同時に、物理的性質への心理学的性質の論理的スーパーヴィーニエンスは認めるので、心理学的な性質は物理的性質に還元され、その還元的説明の本体は機能主義的説明であるとされる。したがって、現象的性質は心理学的性質に還元されることはないが、両者の自然的スーパーヴィーニエンス関係は認めるので、心理学的性質が存在すれば現象的性質が存在し、またその逆でもある、という双方向のスーパーヴィーニエンス・テーゼを主張する余地が残るのである(12)。さてしかし、この双方向のスーパーヴィーニエンス関係は、まともな存在論的考慮を可能世界S1に限ったわれわれにとっては、性質間の<同一性>ではなくとも、もはや立派な<還元>である。それでは、チャルマーズがこの<還元>の根拠とみなした現象的性質と心理学的性質の間の整合性とは、意識と気づきの場合ににどういうものになるだろうか。
 例えば、テーブルの上の赤い本についての私の視覚経験は、その本の機能的な「知覚」に伴われている。光学的な刺激が神経生理学的な仕方で処理され、知覚システムはテーブルの上にしかじかの色と形をした物体があることを記録し、この情報が行動の制御に利用される。そして、意識的に経験されているどの細部を取り上げても、それに対応する認知的表象が気づきという認知機構の中に存在する。そのような対応があることは、意識経験の細部に言及したり、それにしたがって自分の行動を制御したりすることができるということからも分かる。つまり、意識された通りに情報を利用することができるということは、その情報内容を担った内部状態が気づきという認知機構において存在することを含意するだろう(ibid. p.220)。
 他方、われわれが周囲にある何かに気づくとき、一般にはそれに対応する意識経験が存在する。私の認知システムが一匹の吠えている犬を表象するとき、私は吠えている犬の経験をもつ。私が周りの熱さに気づくときは、私は熱さを感じる。もっとも、気づきの場合には、直接的なアクセスがなされているかどうかによって、<意識を伴う気づき>と<意識を伴わない気づき>を区別できるかもしれない。例えば「竹中は金融と経済を兼務する大臣だ」という情報は、知っていても、行動の慎重な制御に役立たせるためには「呼び出される」必要がある。したがって、直接にアクセスされている内容が、意識を伴う気づきの内容だとするなら、適当に狭められた気づきこそが意識経験に対応するものだと言えるだろう(ibid. p.221-2)。
 ということで、物言わぬ動物たちにも意識経験が存在するであろうから、意識に対応する気づきの認知機構から言語的報告の能力を免除することもそれなりに妥当であろう。すると、意識経験の認知的対応物だと考えられる<気づき>のチャルマーズ流の定義が導き出される。やや言葉を補えば、気づきとは、「行動のグローバルな制御のために情報が直接に利用可能な状態にあること」である。つまり、広範囲にわたる行動プロセスを導くために情報が直接に利用可能な状態にあるとき、認知主体はその情報に気づいている、というわけである(ibid. p.225)。
 さて私は、意識を気づきに<還元>するチャルマーズの非還元的機能主義を擁護したい。しかし、気づきという認知機能と意識が互いに双方向に自然的にスーパーヴィーンすることを事実として認めることと、そこに何らかの理由があると考えることは別のことである。チャルマーズにとって、なぜこのタイプのスーパーヴィーニエンスは成立するのに別のタイプのものは成立しないのか、ということを説明する唯一の原理は、上部性質が基盤性質の構造と機能によって定義されるという「論理的スーパーヴィーニエンス」関係以外にはないように思われる。つまり、論理的スーパーヴィーニエンスの関係に立たない二つの性質は、一方が他方を説明するような関係にはない。したがって、整合性原理の際に見たように、そうした二つの性質が時空的に同じ場所で例化されたとしても、そこには、それを何らかの意味で「必然化」するような何の制約も働いていないように見える。例えば、痛みの感覚が脳のある種の機能と同じ時空的位置で例化されたとしても、それはたまたまの偶然的なことであって、痛みの感覚は、「シーラカンスの尻尾である」という性質や「ポプラの葉である」という性質と同じ時空的位置で例化されてもよかったのである。ただ、痛みの感覚が何かに自然的にスーパーヴィーンしているという以上、その時空的同位置での例化は自然法則を共有するあらゆる可能世界で保証されている、というだけのことである。つまり、われわれの世界はたまたま、痛みの感覚が脳のある種の機能にスーパーヴィーンするような世界であって、シーラカンスの尻尾やポプラの葉にスーパーヴィーンするような世界ではなかった、ということである。したがって、さらに悪いことには、なぜ意識と気づきが片道だけのスーパーヴィーニエンスではなく、双方向のスーパーヴィーニエンス関係にあるのか、ということもこれまでのチャルマーズの道具立てでは、説明することができない。ただ、われわれの世界は、両者が双方向にスーパーヴィーンし、それがたまたま自然法則的であるような世界なのだ、という事実を受け入れるしかないように思われるのである。
 しかし、いったん上部性質とそのレベルの法則が措定されたなら、それがなぜあの基盤性質ではなくこの基盤性質にスーパーヴィーンするはずなのか、またこの場合なぜそのスーパーヴィーニエンス関係は一方向ではなく双方向なのか、ということについての何らかの説明があるべきではなかろうか。というのも、そこには論理的スーパーヴィーニエンス以外のある制約が働いているように思われるからである。したがって、もしその説明がなければ、チャルマーズの主張する機能主義は、意識がなぜ物理的性質の<たんなる選言>ではなくまさに<機能>に双方向にスーパーヴィーンするのか、ということの十分な説明を与えてはいないことになるだろう。その説明とは、「この機能が果たされているなら、この現象的性質が存在する」ということと、「この現象的性質が存在するなら、この機能が果たされている」ということをある種の制約から明らかにすることである。そして、その制約とは、S1の可能世界の中では現象的性質といえども原因と結果の連鎖の中で法則的に生じ、しかも因果的閉包性の原理と整合的な仕方で存在しなければならない、という物理主義者にとって当然の要請である。
 実は、チャルマーズは第一の説明を、<組織化の不変性の原理principle of organizational invariance>の擁護として与えており、その原理は、「意識経験をもつシステムSと細部に至るまで同じ機能的組織をもついかなるシステムもSと質的に同じ経験をもつ」というものである(Cf. ibid. p.248-9)。したがって、この原理にしたがえば、問題の機能的組織化が人の脳で実現されようと、シリコンチップによってであろうと、ビール缶とピーナツ(?)によってであろうと、そこにいかなる意識経験が生じるかは質的に一つに定まることになる。つまり意識経験は、いわゆる心的機能の多重実現を通してさまざまな物理的素材から成るシステムにスーパーヴィーンすることになる。さて、チャルマーズは、この原理を擁護する議論として「減衰するクオリアfading qualia」と「踊るクオリアdancing qualia」の二つの思考実験を行っている。ここで、物理主義者が気にかけている問題の制約が具体的にどのようなものであるかが明らかとなる限りで、それらを論じることにしよう。

2-2. 減衰するクオリアと踊るクオリア
 減衰するクオリアの議論は不在クオリアの議論に対抗するものであり、その構造は一種の背理法である。まず、不在クオリアがS1の可能世界で可能であるとせよ。すると、私と機能的に細部に至るまで同型でありながら、意識経験がまったく生じていないような認知システムが存在することになる。そのようなシステムの極端な一例が、ニューロンのすべてをシリコンチップで置きかえて作った人工脳だとすると、その人工脳と私との間に機能的な同型性を保ったままの中間的な人工脳のシリーズを連続的に考えることができよう。そのシリーズの第一歩は、私の脳の一つのニューロンを一つのシリコンチップで置きかえることから始まる。そのシリコンチップは、私のそのニューロンのローカルな機能のすべて、つまり他のニューロンとの結合の仕方、入力に対する感受性、電気的および化学的な出力の大きさなどをすべて保存しているであろう。シリーズの次の人工脳は二つのニューロンを二つのシリコンチップに代えることによって作られ、以下同様に進みながら、最終的にはすべてがシリコンチップでできあがった最終形態の人工脳が出現することになる。
 さてこのとき、不在クオリアが可能だとすれば、クオリアは人工脳のシリーズを進むにしたがってどこかで突然に消滅するか、あるいは次第しだいに減衰していくかのどちらかであろう。チャルマーズによれば、突然の消滅は自然法則の説明不可能な不連続を意味し、そのような不連続はわれわれの世界のどこにも見出せないものであるから、まったくありそうもないことである(13)。さて、ではクオリアがしだいに弱まって消えていくのだとすると、中間段階のどこかでは、意識状態がきわめて微弱になりながらも完全には消滅しているのではないような人工脳が存在するはずである。それをジョーと名づけよう。では、ジョーの経験するクオリアとはどのようなものか? おそらく例えば、私が強烈な赤を見ているときには、ジョーはくすんだピンク色を経験しており、私が大きな声を聞いているときにはかすかなささやき声を経験し、激しい歯痛を感じているときにはちょっとした軽い疼きを経験していることだろう。しかしこの時あなたがジョーに何が見え、何が聞こえるのかと尋ねたなら、ジョーは私と同様に、強烈な赤が見え、大きな声が聞こえ、歯に激しい痛みがあると答えるだろう。というのも、仮定上、ジョーは私と機能的にまったく異ならないからである。さらに、ジョーは自分でそう(認知的に)判断するだけでなく、私と同じにように、自分はいまそうした経験をしているという信念も形成するだろう。しかし、とチャルマーズは述べる。これはまったくありそうもない話であって、それゆえに不在クオリアは不可能である、と(ibid. p.256-7)。
 なぜだろうか。私と同じように正常な機能が働き、周囲の刺激に正常に反応しながら、自分の意識経験についてこれほど誤った判断をする、というのは合理的な認知システムとしてはありえない、というのがチャルマーズの答えである。もちろんそうだが、しかしさらに、なぜ合理的な認知主体は自分の意識経験の内容に関してそのような誤りを犯さないのだろうか。その理由は実は、合理的認知主体の概念といったものを突き抜けて、それよりさらに深く、いわば存在の因果的な制約といったものにまで届いていると私は思う。つまり、もしジョーのように認知機能的には私と同型でありながら私とまったく異なる現象的性質が生じうるのだとしたら、結局の所、現象的性質は、認知機能から切り離された根無し草のように勝手気ままにジョーや私の中に生ずることになるだろう。そしてこの可能性は、どんな機能状態にある認知システムがどんな内容の意識経験をもつかはまったく無制約に自由だ、というところにまで容易に拡大されるだろう。しかし、認知機能から見て根無し草になった意識現象は、物理的な因果連鎖から見ても根無し草になったのである。というのも、<物理的領域の因果的閉包性>と<物理的性質への認知機能のスーパーヴィーニエンス>を前提するなら、意識現象が認知機能にスーパーヴィーンしないということは、意識現象にもはやいかなるまともな原因と結果の因果的ストーリーも与えることができないということだからである。そして、これこそが物理主義者にとって最も重要な存在論的考慮だと私は思うのだが、原因と結果に関するまともな因果的ストーリーを与えることができないような現象は存在の名に値しない、と言うべきである。というのも、そのような現象の数をいくら増やそうとも、またいくら減らそうとも、それと連動したいかなる因果的変化も世界に生じないからである。一言でいえば、因果的にインポテンツな現象は存在しないのである(14)。
 すると、ここでのチャルマーズの議論の届く先は、このスーパーヴィーニエンス関係が破れたなら上部性質の存在は絶たれる、ということにあると思われる。そしてその議論を支えているのは、それぞれのレベルの上部性質が基盤性質からスーパーヴィーニエンス関係を通して因果的な有意性を吸い上げていくとき、それぞれのレベル内部で作り出される因果的ストーリーは、最終的には物理的レベルの因果的ストーリーと整合的な仕方でなされなければならない、という論点である。この論点が、第1節で可能世界のスペースを狭めるために与えられた論点と基本的に同じだ、ということは偶然ではない。この論点が成立するからこそ、不在クオリアは物理的レベルの因果的ストーリーからズレた不整合な因果的ストーリーを招き寄せる、というチャルマーズの議論は、不在クオリアに対する有効な反論たりえているのである。同様なことは、逆転クオリアに対する彼のもう一つの思考実験、踊るクオリアに関しても指摘することができる。もはやその議論の細部は紹介しないが、要するに、チャルマーズが設定した状況では、私は以前とまったく機能的に同じでありながら、逆転クオリアを可能とするシリコンチップ回路を予備回路として取りつけられたおかげで、主回路と予備回路のスイッチの切り替えだけで、赤のクオリアと緑のクオリアを交互に経験するようになる。しかし、私はスイッチの切り替え前後で機能的に何ら違わないのだから、私は、このめくるめくクオリアの交代に認知的にはまったく気づかない。もちろん、奇妙なクオリア交代が生じていると(認知的に)驚きもしなければ、それを誰かに訴えるような行動を取ることもない、等々。したがって、そのようなありそうもない想定は、背理法的な仕方で逆転クオリアの可能性を排除する。ここでも、チャルマーズの論点が、意識と認知との根本的な分離、非調和(out of step)にあるのは彼自身が述べる通りである(ibid. p.269)。しかし、この論点が、物理的レベルと不整合な因果的ストーリーは当の現象の存在そのものを脅かすという存在論的考察まで立ち入っては分析されずに、論理的には可能だが経験的にはありそうもない事柄だという水準で処理されているのも、先の減衰するクオリアの議論と同様である。しかし、チャルマーズの議論の効力は、彼の意に反して、論理的と経験的との二分法には回収されない、自然法則的な必然性をもっていると解すべきなのである。そしてそれこそが、控えめな物理主義にとって、存在論的な考慮の導き手となるべきものなのである。
 このように、チャルマーズ自身による機能主義の擁護は、控えめな物理主義者にとって十分なものとは言い難い。それは、機能主義にとっての第二の論証、つまり「この現象的性質が存在するなら、この機能が果たされている」という論証が表立った仕方では企てられていない、ということのうちにも明白に現れている。チャルマーズに成り代わってこの第二の論証を展開することはここでの私の任務ではないが、彼に対する公平さを期すために、彼が所々で取り上げている関連の議論を拾っておくことは必要であろう。それは例えば、意識をある種の神経学的基盤と同一視し「意識とは40ヘルツの振動に他ならない」と主張する素朴な生物学主義に対してなされたコメントであり、そこでは、機能から切り離された40ヘルツの振動それ自体は何ら特別なものではないし、試験管の中の40ヘルツの振動が私と同じような意識を生じさせると信ずべき理由はない、と述べられている(ibid. p.242)。またその直後には、もっとストレートに、機能的性質を欠いた意識があるとはとうてい思えない、ある種の気づきは意識の必要条件だというのはきわめてありそうな話だとしたあとで、もしそうではなく一つの静止した電子がプルーストのような豊かな意識生活をもっていたとしてもわれわれはそれを決して知ることはなかろうと述べている(ibid. p.243-4)。これらは、断片的ながら、対偶の形で第二の論証と同じ内容の主張「意識→気づき機能」を述べたものと考えることができる。第二の論証は、基本的には気づき機能が意識経験に(逆方向に)スーパーヴィーンするということを示すものであるから、減衰するクオリアや踊るクオリアの議論と同じように、比較的容易に、意識の因果的ストーリーと認知機能の因果的ストーリーの根本的なズレから背理法的に構成することができるだろう。それは、「同じ認知機能が果たされているのに意識経験が生じていないこと(不在クオリア)もしくは、異なった意識経験が生じていること(逆転クオリア)」の不整合と対称的な仕方で、「同じ意識経験が生じているのに、認知機能が何も果たされていないこと、もしくは異なった認知機能が果たされていること」の不整合を示すことである。
 いずれにせよ、このタイプの<還元的な>機能主義は、意識を特定の物理的素材の特徴、例えばニューロンの特性やローカルな生理学的活動と同一視することを排除する。というのは、この機能主義によれば、意識は気づき機能から生じるので、気づき機能を実現するものはニューロンではなくシリコンチップでもかまわないし、他方、逆に意識が気づき機能とは別の仕方で直接にニューロンの特性から生じるようなことはありえないからである。そこで、意識と認知機能と物理的基盤の三者のスーパーヴィーニエンス関係を整理して、きわめてラフな仕方で表現すればこうなるだろう。Piを気づき機能を果たす任意の物理的実現、Aを気づき機能、Cを意識経験とすれば、気づき機能Aは性質Piにスーパーヴィーンし、同時に、意識経験Cと双方向にスーパーヴィーンしあう。
       Necessarily{(P1∨P2∨・・・∨Pn)⇔A⇔C} 

 3. 意識をもつ身体はどこまで可変的か?

 さて最後に簡単に、<還元的>機能主義が可能とする意識の人工的な実現がどのような身体をもちうるのか、ということを考察して本論を終わることにしよう。これまでの議論が正しければ、ある種の認知機能、つまり気づきの機能が正しく果たされているならば、その実現体がシリコンチップによるデジタル・コンピュータでもそこに意識経験が生じるということであった。したがって、チャルマーズが主張するように、サールによる「中国語の部屋」の議論にもかかわらず、強いAIの主張はある意味で正しいということになるだろう。確かに、多くのAIの支持者たちが出した結論、つまり中国語の部屋に閉じこめられ作業をするその人は中国語を理解していないが、中国語の部屋全体は中国語を理解している、という結論がこの<還元的>機能主義から出てくると思われる(15)。しかし、このことは、強いAIの主張が示唆するように、たんにしかるべき機能を果たすプログラムがインストールされたディジタル・コンピュータはそれだけで意識をもつ、ということだろうか。チャルマーズと同様に私も、意識とは気づきの機能に他ならず、気づき機能は脳の中で果たされ、その機能を果たす脳が存在するならそれは意識をもつということにコミットしている。さらに私は、気づき機能を果たす何らかのプログラムが存在し、それを実行可能なコンピュータにインストールすることもできるだろう、ということにもコミットする。しかしそれにもかかわらず、それは、環境世界から完全に切り離された仕方でそのようなプログラムの実現がありうる、ということを認めることではない。別の言い方をすると、気づきの機能が気づきの機能であるのは、環境世界とのしかるべき因果的相互作用という制約を満たすことがその前提である。つまり、チャルマーズの行った思考実験が、あたかも脳の中の機能だけを自己完結的に取り出すことができ、それだけが意識の実現にとって問題であるかのように思われたとしたら、それは誤解である。完成された脳の気づき機能がまず存在し、それからそれが環境世界の中に埋め込まれたのではない。環境世界との因果的相互作用の中にまず脳が存在し、それからその脳が気づき機能を獲得したのである。つまり、脳の微細な機能が第一なのではなく、環境との相互作用が第一なのである。したがって、環境世界との一切の因果的相互作用なしに、自己完結的に<思考>だけを意識的にめぐらすコンピュータというのは、誇張されたカリカチュアでしかないだろう。
 もし私の脳を一切の外的刺激から遮断したら、それでもそれは何かを考えたり、感じたりするだろうか。それは夜の睡眠の間のように、記憶のストックから引き出した表象だけで、ほしいままの完全な思考の自由を享受するのだろうか。むしろ、つかの間の奔放な思考の乱舞のあとで、完全な無が訪れるのではないか。われわれの脳は、何かを意識し考えるために環境世界に住まい、環境世界に住まうために身体を必要とする。つまり、脳が環境との因果的な相互作用を行うためには身体という入出力のフィルターが必要なのである。したがって、存在の順序から言えば<環境→身体→脳>であって、その逆ではない。しかし、それでは、脳と同じ気づき機能を果たしうるコンピュータをまず第一に作って、この順序を逆にしなければならないとすれば、それにはどのような<身体>が次に必要となるのだろうか。気づき機能が遂行されるためには、環境世界からの適切な入出力とそのフィードバックが生じているという前提がまず満たされていなければならない。したがって、<身体>の制約となるのは、そのコンピュータの住み込む世界がどのような種類の刺激や情報に満ちているか、ということであろう。つまりその<身体>は、環境世界の特定の刺激や変化にレンジをあわせて、そこからのエネルギーを変換して入力とし、出力の結果、世界に自分の意図通りの変化を引き起こすだけの装置が必要だろう。
 極端な二つの場合を考えてみよう。一つは、パトナムが想定した培養槽の中の脳のような環境状態である。この場合、培養槽の中に浮かぶ脳は、自分の浮かぶ培養槽の環境と相互作用しているのではなく、周囲のスーパー・コンピュータと直接に電気的な刺激をやりとりしている。したがって、脳にとってリアルな環境世界は電気的信号に満ちた世界であり、その情報をやりとりするために脳は格別な<身体>を必要とはしていない。したがって、培養槽の中の脳の想定が矛盾をはらむものでない限りで、もっとも安価な<身体>とは脳を刺激にむき出しにするための<身体なき身体>であろう。しかし、このパトナムの想定がいかに異様なものであるかを考えれば、この<身体>がいかに異様なものであるのかも理解できる。それゆえ、それはこの状況と同じくらいありそうもない話である。もう一つの場合は、ブロックが想定したような巨大な<脳>の環境状態である。そこでは、例えば、中国人民と同じくらいな(いや、それ以上の)数の多くの人間が、それぞれ私の脳の一つ一つのニューロン機能を担当し、お互いに携帯電話で(?)連絡を取りあって、全体として私の脳と同じ機能を果たしている。しかし、この場合、もしこの巨大な<脳>が適切な入出力の因果連鎖の中にいなければならないのだとすれば、それが同調すべき刺激とは何だろうか。またその出力はどのような変化を世界に生み出すように意図されているのだろうか。この<脳>の<身体>のあるべき姿を考えるとき、どれほど高価なものを用意するつもりであっても、適切な入出力の種類とレンジが決まらなければ決まらないであろう。そして私は、それらをまともな仕方で想像することができない。さらにもっと巨大なサイズのコンピュータや極小サイズのコンピュータに関しても同様である。例えば、惑星一つや電子一つほどの大きさのユニットが一つのシリコンチップに相当するようなコンピュータの<身体>とは、いかなる種類の入出力に同調するようなものであろうか。それは何を<知覚>し、何を<行う>のか。それもまた、私の想像力をはるかに超えでている。それらは、私の想像力の貧しさを差し引いても、ありそうもない<身体>であろう。
 これらの想像困難性は、これまでの考察を導いてきたような因果的な不可能性のような法則的なものではなく、経験的なものであるように思われる。しかし、こうした<身体>をもつ<脳>、つまり私と同じ意識をもつはずのコンピュータが何を考えたり、感じたりするのかということを考えてみるなら、たんに巨大になりすぎた私、もしくは矮小になりすぎた私の心的生活とは根本的に異質なものを想定せざるをえないであろう。というよりも正確には、そのような心的生活がどのようなものであるかを想像できないように思われる。それはもはや、気づくべき何かを適切に与えられていない気づき機能、したがって意識すべき対象を本来の仕方で与えられていない意識というものにすぎないのではなかろうか。それは、まどろみの中にある不分明な意識というほどのものですらないだろう。要するに、<身体>の姿をうまく与えられそうもない<脳>は、たんに機能主義的な意識の特徴づけをスローガン風に大げさに述べ直したものにすぎない。だから、機能主義者としてのチャルマーズが、「形や大きさやスピードや物理的組成などに関して異なるものを含めた、私と機能的に同型のどんなシステムに関しても・・・」と楽天的に述べるとき、われわれは、彼の強調する肌理の細かい(fine grainedな)機能主義の落とし穴に警戒すべきである。それは時として、われわれがまだ真剣に考慮していないスピードやコミュニケーション能力といった<身体>機能をないがしろにして、暗黒の無の中で<意識>をもつコンピュータを<脳>の典型例と見なしてしまうからである(15)。



(1) Chalmers, D. J., The Conscious Mind, Oxford U. P., 1996, p. 123. ただし、字義通りの訳ではない。
(2) 現実世界からの各可能世界の<遠さ>を表現するための一つのやり方は、それが現実世界と同じ物理法則をもっているかどうかである。しかしチャルマーズのゾンビ世界は、現実世界と同じ物理法則と同じ初期条件、つまり同じ物理的事実が成立している世界である。したがって、物理法則と残りの自然法則を込みにするふつうの扱い方では、ゾンビ世界は現実世界の物理的複製である以上、現実世界から見て、物理主義がまさに気にかけるべき<近く>に存在していることになる。問題は、この見せかけの<近さ>が本当はどれほどの<近さ>なのか、ということである。
(3)以後、「事実」を「法則+物理的性質の例化のすべて」というチャルマーズの解釈にしたがって、議論を進める。
(4) 存在論的な主張の身分をどう考えるかに関して、私はチャルマーズとは違う路線を取りたい。一元論にしろ二元論にしろ、それは、哲学的な(とは限るまいが)ノックダウン・アーギュメントによって真理が確証されるような主張ではないだろう。むしろ、例えば物理主義は、科学のフロンティアをどこへどのように広げていくのか、倫理を含めたわれわれの知識全体をどう整合させるのか、また、宇宙におけるわれわれのアイデンティティをどこに求めるべきか、というようなことに関しての一つの探求の枠組み、というか控えめな意味での一つの世界観の提案であろう。したがって、それは、まずそれが論証されて初めてそれを前提にした探求の路線が取られるというよりは、科学のさまざまな戦線での探求の結果、次第にもっともらしさを獲得していくものであろうと私は思う。要するに、物理主義はこの意味で、世界の見方に関する一つの提案なのであって、<ふつうの最善の説明(best explanation)の成功についての最善の説明>の一つとして、他の同様の(二元論的?)提案と、もっと息の長い戦いに耐えねばならないものだと思われる。
(5) 彼は、この[A-事実とB-事実との]対応関係がたんに偶然的ではなく法則的である場合に」自然的スーパーヴィーニエンスは成立する(p.37)、と主張する一方で、それは、「現実の経験的可能性-----もし条件が整えば現実世界で生ずるだろう状況」(p.36)、あるいは「私の物理的構造が現実世界の何らかの生物において再現されたなら、私の意識経験も再現されるだろう」(p.124)という可能性に対応すると述べる(後の二つの強調は引用者)。しかしもし「法則的関係」を引き合いに出すなら、それはすでに、何らかの可能世界に言及していることになろう。もっとも彼が、自然的スーパーヴィーニエンスは可能世界への言及を含むということを完全に承知していながら、そのような言い回しをわざと避けている、というのはありそうな話である。その場合、私のこの「言いがかり」は、世の物理主義者にそのことを改めて理解してもらうためのものだと受け取っていただきたい。
(6) 私は、この物理的因果的閉包性に関してキムの理解に従いたい。キムはそれをこう説明している。「いかなる物理的出来事を取り上げて、その因果的な始まりと行く末をたどったとしても、決して物理的な領域の外に出ることはないだろう。すなわち、いかなる因果的な連鎖も、物理的なものと非物理的なものの境界を踏み越えることはない。」Kim, J., Mind in a Physical World, The MIT Press, 1998, p.40.
(7) 以下の可能世界群と法則の整理に関しては、現在ロンドンに留学中の千葉大学、柏端達也氏から多大の示唆を頂いた。ここにとくに記して感謝の意を表したい。もっとも、この改良版に関しても彼に最終的に納得してもらっているわけではない。
(8) 柴田正良『ロボットの心』、講談社現代新書、2001, pp.199 以下参照。
(9) これは、いわゆるその性質独自の「因果的効力 causal efficacy」ではない。むしろ、物理的因果関係の上に乗った「スーパーヴィーニエンス因果関係」上の性質がもつ「因果的力」である。Cf. Kim, J., Supervenience and Mind, Cambridge U. P., 1993, p.359.
(10) もちろん、キムがすでに述べているように、物理主義の主張がスーパーヴィーニエンスの主張で尽くされるわけではない。スーパーヴィーニエンスは、結局、一種の連動条件であり、なぜそのような連動が生じねばならないかということを、物理主義は今後、上のような因果的な制約条件を洗練化させることによって明らかにせねばならないであろう。Cf. Kim [1998] pp.9ff.
(11) 「双方向のスーパーヴィーニエンス」という言い方は、一方の性質(心的性質)が他方の性質(物理的性質)に依存(dependent)し、それによって決定(determin)されるという物理主義のもともとの直観からすれば、ミスリーディングな表現であろう。しかし注(10)で述べたように、形式的な関係概念としてのスーパーヴィーニエンス概念そのものは、二つの性質(群)の連動ないし共変(covariance)のパターンを捉えるものにすぎない。したがって、ここでは「双方向のスーパーヴィーニエンス」という表現にとくに存在論的な含みを持たせてはいない、ということを了解して頂きたい。つまり、この表現はここでは、意識と気づき機能の存在論的な依存関係について何かを主張するものではない。Cf. Kim [1998] p.11.
(12) チャルマーズにとって、性質間の還元とは、一方の性質の他方の性質への論理的スーパーヴィーニエンスを意味するのであって、両者の双方向のスーパーヴィーニエンス関係ではない。したがって、心理的性質と現象的性質がS1の可能世界において双方向にスーパーヴィーンしても、それが論理的スーパーヴィーニエンスでない限り、性質の還元とはならない。他方、控えめな物理主義にとっては、この双方向のスーパーヴィーニエンスは問題の二つの性質が互い還元されることを意味するが、それだけではまだ両者が同一の性質であることにはならない。
(13) 自然法則の含意する連続性を意識経験の連続性の制約とするこの主張は、この後の彼の論拠とともにきわめて興味深い。というのも、すぐあとで明らかになるように、それは、現象的性質の生起の仕方を制約する<因果的ストーリーの整合性>という論点をすでに含んでいるからである。
(14) 私はこの論点を、柴田[2001] p.203以下で、<超事実>の空虚な可能性の排除という議論として述べた。
(15) しかし、ある箇所でサールが述べているようにもし強いAIの主張が正確に言って「心とはコンピュータ・プログラムに他ならない」というものであり、サールの主張が「コンピュータ・プログラムは心ではないし、それだけでは心をもつのに十分ではない」というものであるなら、なおサールは正しいと言ってよいだろう(J. R. Searle, Minds, Brains and Sciences, Harvard U. P., 1984, p.28, 39)。というのも、チャルマーズが引き合いに出しているサールの議論は、この部分が「プログラムを実現すること(implementing)は心を生むのに十分でない」というように再構成されており、チャルマーズの反論は、「プログラム」ではなく「プログラムを実現すること」に向けられているからである(Chalmers[1996] p.326-7)。もっとも、サールの表現は曖昧であって、問題の箇所の周囲にはこのように再構成されても仕方がない言い回しがいくつか見出される。
(15) <身体>に対するこのような制約の一端が、柴田[2001] p.73以下で簡単に与えられている。

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